昭和42年02月07日 朝のご理解
片島せんという、大変お徳を受けられた先生に、神様は、清まること、美しゅうなること、信者が清まり、美しゅうなることを願う信者を、どうぞ、お引き寄せくださいと願えという意味の事を教えておられます。どうぞ、おかげを頂きにくる信者が、たくさんお参りをしてきますようにと。たくさんお参りしてきますようにというような、願いは神様は全然、聞き届けておられません。
ある時に、大変見事な大きな手洗い鉢のお供えがあった。ですから、そのことを神様にお届けされて、どうぞ、この手洗い鉢のお水が、毎日毎日汲み替えなければならんほどに、たくさんの信者氏子をお引き寄せくだされと言うて願われた。もう、どのようなことにでも、いちいちお答えを下さる神様が、その時に限って、ま、神様がまあ言うなら、見向きもなさらないというな感じであった。
神様どうしてこのことに対してご返事を下さらんのであろうかと、と思うて、重ねてご祈念をし、お伺いをなさっておられると。あのお手洗い鉢のお水で、どうぞ、清まらせてくださいと、美しゅうならせてくださいと言うて、願う氏子を授けてください、願う、そういう氏子をお引き寄せくださいと、なぜ願わんかという、きつい神様のお達しがあったと、言うことでございます。
どんどん信者が参ってくるごと。たくさんの信者がお参りをしてくるようにと、いうような願いでは神様がいわゆる、見向きもしておられんというところをですたい、皆さん、考えてみなきゃでけんですね。どうぞおかげをください、おかげをくださいと言うだけでは、実を言うたら神様は見向きもしよなさらんですばい。ただ、金光大神のお取次ぎのお徳によってです。
金光大神の言うなら保証人によって、いわば金を貸して貰う様に、おかげを貸して貰っておることは、貰えるでしょうけれどもです。それだけでは皆さんいけんでしょうが。それだけではいわばおかげの、金光大神をまたは親先生を保証人にして、おかげを借りておる様なものですから自分のものになりません。これも桂先生初代の桂先生に、桂松平汝が徳を受けておかげの貸付をしとけとも神様が仰っておられる。
いくら言うても、いくら言うても、信心を頂きたいという、そういう願いを持たずにただおかげおかげと言うて、おかげ亡者のようにおかげだけを願うてくる氏子がある。それでもやっぱりそういう氏子には氏子でです、いわゆるお前はしっかり徳を受けて、神の保証人としてのです、信用をお前が受けて、さっさと貸付をしとけとこう仰った。この世で氏子が払えん時には、あの世まで神が取りに行ってやると仰ったげな。
これでは、馬鹿らしい話でしょうが。どうぞ、たくさんの信者を、集めてくださいと願われた片島せん先生にです、神様は、そのことに対しては見向きもなさっておられない。重ねてお願いをされると、そういう信者氏子がたくさん集まったけども、何になるかと言わんばかりにです。どうぞここには清まりげ来る所、ここには限りなく美しゅうならせて頂く所と思うて、美しゅうならせてください。
美しゅうならせてくださいと言うて、そういう願いを持って、集まってくる信者を、お引き寄せくだされと言うて、なぜ願わんかとこう、お達しがあっておられますようにです。皆さんがお口をゆすがれる、手を洗われる。それは、口をゆすぐとか手を洗う、そんなこっちゃーない。それによって、自分の心を清めさせて貰う、自分の心を美しゅうさせて貰うという、そういう願いを込めての、あの形のお手洗いの水であると。
お口をゆすがせて頂く水であると。ですから、そういう、ほんなら願いを持って、お引き寄せを頂かれる氏子のことを、神様が、いわば、見向きもせんと仰る、反対のことになってくりゃせんでしょうか。そういうふうな願いをもって、お参りをしてくる。今日も本気で美しゅうならせてもらうぞと、どうぞ本気で改まらせてください、美しゅうならせてください、研かせてくださいというて、願い拝ませてもらう。
なら氏子の上には、もうそれこそ神様が、私は何か知らんけど、こうやって神様が待っておられるような気が致します。おかげおかげという氏子の上には、神様は見向きもなさらんような感じ。今日もこのことば、いっちょお願いせんならんから、いっちょ、お参りせんならん。なるほどそれもよかろうと。けれどもやはり、私は、信心のいよいよ、焦点であるところの、本心の玉を研くことに。
信心とは日々の改まりが第一ぞと仰る、その第一のところに、目指しをおいての、信心のけいこでなからなければ、けいこがいっちょんでけんと思うです。夕べでした。末永さんがこの、ご神前を箒で掃わいておるんです。ところがその、こんな、箒をこんな上に上げこうして掃わいてる。もうこれは私はいっつも思うんですけれども、箒が、一人前に握れれるという人は、実に少ないです。
お雑巾が、本当に一人前に使えるという人は、実に少ないです。皆さんが、ああしてあの、御用にお出でられるならですね、ただ掃除するだけじゃなくて、本当にお掃除のけいこに行くと思うて、お出でならにゃいかんです。もちろんその中を通してですね、信心させて貰うのですけれども、同時に、お掃除のけいこをさせてもらうという気持ちで、行かにゃいかんです。
私が本当に、監督さんにでもなるなら、今、ちょっと皆さんに、手を取って教えたい気がするけど私どもはやっぱり、小僧生活から番頭生活やっぱり7年間、そしてまたよそのお店に働かせて頂くこと10年間。もちろんこれは酒屋ばっかりでございました私は。いうようにその、もう、小僧時代からですね、お掃除のことだけは、もうとにかく、雑巾の持ち方、箒の持ち方をもうやかましく言うて教えられておりますから。
おかげで、お掃除は誰よりも上手にすると自分で思います。雑巾の持ち方が違う、箒の持ち方が違う。もう皆がいたしますと、箒でも何でも、もうすぐ長刀のごつねぇてしまいますもんね。こげな風にして掃わきよるけん、長刀のごつなる筈じゃん。して、つーつーとあけて掃わいていくもんじゃけん、いっちょん、垢抜けはせん。当たったところもありゃ当っとらんところもある。
いや、当たりよるごたるばってん、こげな風にして、末永さんが掃わきよる、上さんこうするけん、ここにまた、こっちさ返ってきてしまうようなもんです。それで自分なお掃除したという気持ちでおる。隅々が綺麗にならん。やっぱりお掃除にはお掃除の要領がある。それには必ず上から下へ。どうでもお雑巾をかけるならです、もう本当に、もう、お水をですね、もう本当に替えなかったらなーにんならんです、お縁拭くとは。
そりゃもう、泡ばっかり汚れた水で、いくら拭いたところで、後からしーろなっとるもん。もうお掃除は隅々。そしてですね、お掃除が上手になりますとですね、散らかさんです、ほんなこつ。汚さんです。もう、お掃除の下手な人に限って散らかすです、汚すです、平気です。ようにですね、自分の心を作るということにでも、やっぱりただ、掃わいとります、参りよりますけん。
もう何時の間にか美しゅうなるようなことじゃ絶対美しくなれんです、要領がありますよ。そこんところを皆さんがですね、言うならば、ただ、お参りしただけでは神様が見向きもしなさらんような感じだから、本当に神様に、こちらの方を向いてもらうためにもです、本当の焦点の、神様がこちらを向いてくださるような心がけで、お参りをさせてもらい、けいこさせてもらうて。
しかもそのけいこには、どういうようなけいこをさせて頂くかということ。どういうような風にすりゃ、ほんなら、研かれていくか、美しゅうなっていくかと。ということを皆さん、焦点におかにゃいけません。「本心の玉を磨くものぞや」「日々の改まりが第一ぞ」と、それを知っておるだけでは、美しゅうも、改まることになることも出来ません。研いていくことも出来ません。
その問題を通して改まり、その問題を通して美しゅうなる。それもほんなら、どげなこっちゃろうか。大体、美しゅうなるちいうことは、研くちいうことはどげなこっちゃろうか。どこば改まったならよかでっしょうかて、てんでゴミだらけにしとるとに、どこば掃わいたらよかろう、あんま散らかっとるもんじゃけん、どこから箒をつけて良いやら、雑巾をかけて良いやら分からんような、人達が沢山ありゃせんじゃろうか。
あんまり、ろくそなかもんじゃけん、もうだいたいが、もう、そのひっ散らかっとろうが、汚れとろが、そこん中で平気になってしまう。ところが、それとは反対にです、研く、美しゅうなろうということの、要領を得ておる人達はです、もう、ちょっと汚れたなら、もうそれはじっとしちゃおられんとです。乱れたら、それが、本当にきちっとなるまでは、言うなら、前の方には進まれんとです。本当にそげんですばい。
もう何時でしたでしょうか、もう、16年ですから、もう17年か18年くらい前だった。御本部参拝させてもらった時に、前の祭場でした。金光様が、こう、お出まし、あの時分なまだ、神饌がこうあっとる時分でした、回廊をこう通ってですね。私どもはもうお参りしたらもう、立錐の余地もないごと、いっぱいなんです。それで前の方から、こう回ったところが、来賓席が空いとった。一番前の。
そしたら、誰ん来てなかけん、ここでよかくさいち言うてから、秋永先生と二人で、ほんなもう、一番正面で拝ませてもらった。あの、先生方が奉仕される、反対側の方ですね。ですから、金光様がお出ましを、本当傍で拝むことが出来たんです。金光様がお装束つけてこう、お出ましになる。そしたらですね、ほんなあの、お縁に、このくらいばっかのわらしべが落ちとったです。
お装束をおつけになって、あの、先導の先生が先導して、もうお見えておられるとですよ。それに金光様がずーっと、段々お進みになっとったら、ちょっとかがんでから、拾われたんです、それを、そのわらしべだった。ちょっとポケットに入れられた。ポケットっちいうが、袂にお入れられた。もう、金光様はですね、前に、このくらいの、わらしべ一つ落ちておっても、。
かも、祭典の半ばであっても、もう前にお進みになれないお気持ちがあるのです。汚れておろうが、散らかっておろうが、平気でそこを通っておる。それでは神様に届かんです。そん時のことを、よく、秋永先生と話すことですけどね。本当にやっぱりもう、自分の心の中にでも、わらしべくらいな散らかりものがあったら、もう、前には進まれないというぐらいなですね。
私はおかげを頂かなければ、本当なことは、おかげは受けられんとこう思います。やっぱり、垢を落とさなければ、いくら研いたっちゃ同しこと。皆さんは、お風呂へ入らせて頂いてから、もう、病気なら病気をしといてから、2、3日も入らん時ですね、お風呂入りますと、もうはあ気持ちが良かった、すっきりした、やっぱ風呂が一番と、こう、思われるでしょうが。
垢が落ちたりすっきりと体を洗い清めますとですね、そういう気持ちがするんです。一日なら一日です、本当に改まることに努めさせてもらう。ね、例えば言いたいことがあるけど、その言いたいことをもって、ほんなら修行とさせて貰い。本気で教えを行じさせて頂くということになりますとです、その後にちょうどお風呂入って、あのさっぱりしたように、はあ、今日一日おかげを頂いてよかったという気がするんです。
ですから、そういう例えばお風呂にでも入ったり、顔でもすきっと洗わせて頂いた時のようなです。どうにも落ちない時には石鹸をつける。どうにもいけない時には、お取次ぎを頂く。お取次ぎを頂くということは、どうでも落ちないそこに、石鹸をつけるようなもんと仰る。そりゃ漠然とどこんでんここんにでんしてきた、こう、塗ったくったっちゃつまらんとです。ここが汚れとるなら、汚れとるところに石鹸をつけさせてもらう。
ですから、私はここんところを改まらせて頂かんならんのですけども、なかなか、垢が落ちません。そこんところを、お取次ぎを頂き、願わせて頂いてから、お取次ぎという石鹸をつけさせて頂くことによって、自分でどうにも落ちなかった垢が、いうならば、染み込んでおったようなものが、段々染みがなくなって行って、綺麗に美しゅうなっていくのです。その時の気持ちが素晴らしい。
だからそん時がそうです、信心冥利とでも申しましょうか。いわゆる、お風呂から入って、垢を落としたり、清まったりした後に気持ちが良いようにです、そういう、改まり美しゅうなるということが、気持ちがいい、有り難い。それが、楽しみになってくるという、信心にならなきゃいけんと。ここで皆さんが、宅祭りをなさいます。椛目じゃ、宅祭りということは、あんまりよう致しません。
よう皆さん、そ、誰でも彼でもいたしません。まあ言うなら、主だった方達がいたします。出来ませんもん。造営がかかりますきん。ですから、宅祭りの時だけくらいは、私、宅祭りする人達に言うんです。宅祭りを仕えさせて頂く時、その日一日だけくらいは、もう、本当に、もう、馬鹿んごと美しゅうなんなさいと私が。たくさんのお供え物は買わんならん。他所からもお供え物をたくさん頂く。
それば自分で、一包みでんです、例えば、酒一本でんです、自分方に取っとこうというよな気持ちどん、なるどんしなさいますなと、私は申します。今日という今日は神様が集めてくださったんだ。今日という今日は、神様が、お礼の一年のお祭りをさせてくださったんだと思ってです。皆さんが椛目に、野菜を持ってきたところで、椛目にも、野菜はあるけれど、すっきりそのまま、これは、お供えさせて頂く。
今日一日だけは、限りなく美しゅうならせて頂くことの、けいこのためのお祭りでなからなんいかんよと、私は申します。ですから、椛目の方達は、なかなか、だから、宅祭りというのはなかなかでけません。大変な造営がかかることですから。ただ、心得だけ仕えりゃよかといったようなものでは、いけんのです。私どもの心の中に汚ーいものがある。よそから例えばたくさんのものば頂く。
それが食べたい飲みたい、はあこりゃ一時取っときたいと思う。日頃そうであってもせめてお月次祭のじゃない、お宅祭りの時だけくらいはです、今日が限りなくもうそれこそ(?)の底から美しゅうならせて頂くつもりで、そういうけいこをさせてもらいなさい。その後の気持ちが有り難い清々しい。だからここではよそで、よその教会にご縁を頂いておられる方達が宅祭りをされるのとは全然意味が違います。
そりゃそうですよね、もうどんなに賑やかにああた、こうやって、食料品店のごとあぁた、いっぱい飾り立ててからですたい、お祭りを仕えても、こりゃ盛大なお祭りじゃったと言うても、それが自分が食べるためであったり、飲むためであったなら、大したことないじゃないですか。よかよか、いくら損したっちゃ、またうちに頂くとじゃけんでっち言うのなら、どがしこ買うたっちゃええじゃないですか。
どげん賑やかしにでん買うちゃる。一生懸命なことが出来る、しかもそれがもう、本当に、それがそのままです、お礼としてからお供えもできるという、心が美しい。だからそれが、簡単にできるということはなかなか難しい。けれども、せめてそういう心にならせて頂きなさいち言う。それが、日々、なら例えばできるようにならせて頂くところにです、もう、限りないおかげの頂けれる、いわば、お徳を受けるのです。
さっさと喜んでもらう、さっさと後ろから、また、神様が喜ばせずにはおかんという働きがあるのですよ。これなんかは、椛目で私が、美しゅうならせて頂くけいこ、と私は、申しております。お宅祭りを。ですから、やっぱりその、願いというかね、そういう、例えば、ちーった惜しかばってんですねえ、そこに惜しげをつけたんじゃ、はあ、自分なこげなん汚い心があるということが分からん。
だから、自分がこういう汚い心がある、これは例えばですね、私が、人に物あげる時、やっぱ人間じゃけん、自分が好きやから、好きなってん惜しか。と思うたらですね、その惜しかと思うたつをあげることにしとります。これはもう、私が、もう、昔からその、流儀です、私は。うん。例えば、私は人に、大体やるとが大体、好きじゃありますもん。してまた、人に見せびらかすとか好きですもん。
ネクタイやらでも、こうみんなに見せにゃいけん。そすと手前まで来てから、ほう、お前よかつ持っとるねっちゅうて、こりゃよかねっち。もう、こりゃよかねっちいうのと、やっぱこっちのがよかねっち思うとるですもん。ですけん、帰りがけには、よか、よかねっち言うたつばやることにしとります、もう昔からそうです私。うん、惜しかです。もうまた、あれば、やったつばはめてくると。
はあそりゃよかったねっち言うちから、ごたるけどもですね、そういうけいこをしていくうちに、段々それが有難うなるです。相手が喜びよるとですね、もう相手が喜ぶことだけで、こっちが嬉しゅうなる。そんかわりまた、こっちも限りなく頂きます。人も喜ばれ、自分も喜べれるというようなです、おかげというのは、やっぱりけいこしなければ頂けるもんじゃないです。
もうほんなやるちゃもう、ちょこうっとばっかりこうやって、割ってやるごたることをする。そんなことしたら喜びゃせんです、もうやらんほうがよか。そうですよ、もう惜しい、惜しい、惜しゅうしてやったんじゃいかんですよ。ありゃ汚か証拠じゃ、人間の。言うなら、惜しげあしげ、の私は、おかげの頂けれる、そういう心なんです。せめて、神様事、せめて神様にだけは。
というような、気持ちでおかげ頂かせて頂くところに、神様だけではない、人にでもそうさせて頂けれる、心というものが生まれてくる。そういう美しい心に神様が感応まします。そういう心に神様がこちらを向いてくださる、いや、そういう心にならせて頂きたいと願う心に、神様がこちらを向きを直してくださるのです。どうぞ、一つ、片島せんというような、大徳を受けられた先生が、願われたことに対して。
神様は見向きもしなさらなかったということは、ただ、沢山の信者が集まってくるように、沢山の信者が集まってきて、この手洗い鉢の水が干上がってしまうようなおかげを頂かせてくだされーという時には、だからそれが分からんまんま、神様聞いてござるごと思っとる。ところが、この方は神様からいつもお伝えがあるもんですから。願いされたけれども、神様は見向きもしなさらないというような感じであった。
そういう願いでは、神様が向こう向きなさると言う事が分かるんですから。どうぞ清まらせて下さい、美しゅうならせてくださいと言うて、その手洗い鉢の水を使うような氏子が、沢山お引き寄せを頂きますようにと言うて、なぜ願わんかと神様が仰られた。だからそういうなら氏子の上に神様が、向き直しなさらん筈がないということ。
せっかく、お参りをさせて頂くのでございますから、神様の後ろからでも拝むことをせずに、神様にこちらを向いて貰うて、そして、願うことは願い、頼むことは頼み、お礼を申し上げることはお礼を申し上げさせて頂くような、一つ信心にならせて頂かなければならんと思うのですよね。そのために、どうでも一つお風呂へ入ってから、はあ今日は気持ちが良かった、さっぱりした、と言う様な気持ちになれれるような、日々でありたいと思いますですね。
どうぞ。